« 雨の中の「雪中行進」! | トップページ | 孫との再会 »

島を守った覚林さん

その昔・・・

松島と並び、その景観が称えられ、奥羽の歌枕として名をはせた「象潟」。この地名がなかなか読んでもらえないようで、「ぞうがた」等と言われたりしている。その象潟は、その昔、九十九島八十八潟と言われた景勝地であり、わがまちの財産だ。

この景勝地を芭蕉が訪れ、「奥のほそみち」発表後、多くの文人墨客が象潟を訪れた。蕪村はじめ一茶、子規等で、詠んだ句等が残っている。きょうも昨日に続いて、市の観光季刊誌の表紙をご覧頂こう・・・

012

左が現在の九十九島、右はかつての九十九島の屏風絵だ。

このように当時は汽水湖で水深が2mほどだったとか。そこに島が点在していたから、やはり絵になったのである。しかも、遠方の鳥海山がそこに逆さになって映っていたら、それはそれは素晴らしい景色だった事は容易に想像出来る。

紀元前466年、鳥海山の噴火で山が崩壊、山から滑り落ちた岩石や土砂が堆積して、九十九島を作ったのだった。

011 ところが・・・江戸時代の後期1804年に起きた大地震で、今度は地盤が隆起して潟は消え、九十九島は、その面影を残すのみになったのである。

そして物語は続く・・・

実は、隆起した土地を開田する動きが始まったのだ。そこできょう紹介する当時の蚶満寺の24世住職・覚林が、それに反対して本荘藩に捕えられ、ついに獄死する。

しかし、この覚林の行動で島は救われたのだ。だから、今でも水田の中に島が残っている。天然記念物にもなり、先の日本の風景地としても指定を受ける事になった。

実はこのことは、市民の間でもまだそんなに知られていない。それを俺の尊敬するT氏などが調べ、この覚林を顕彰し、将来的には顕彰碑の建立や年譜の作成を目指して、「覚林和尚を顕彰する会」を立ち上げた。その会員に俺も誘われた。

003

実は、この27日、この会の主催で覚林和尚の法要を行なった。法要後、本堂で現在の住職から、所蔵している覚林直筆の書の紹介があった。「彼は禅の深い知識があった」とのことであった。講話を聞いてから墓参り・・・

名刹の蚶満寺、今後また新たな発見があるかも知れない。昨日は先進的なわがまちの偉人・白瀬を紹介したが、ここにまた「ふるさとを守った先人がいた」ことを、俺たちは忘れないだろう。

009

当日は雨の中での法要・墓参となったが、寺から見る九十九島は何事もないように、地にでんと居座っていた。

|

« 雨の中の「雪中行進」! | トップページ | 孫との再会 »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

昔は汽水湖の中に九十九島が浮かんでいたのですね。その構図は何となくわかるのですが、現在は地盤が隆起して水がない陸地に点在している島が何とも奇妙な感じがします。しかし、この奇妙な島群が生き残ったのが、覚林和尚の働きによるものだったんですね。
いつの時代も先見の明がある人が必要なのですね。

投稿: 京じじ | 2016年1月30日 (土) 07時36分


京じじ 様

島は残り景観は保持されました。田んぼの中の九十九島、田植えごろは田の水面に鳥海山が映り、往時が偲ばれます。
ただし、田んぼを耕作している農民にとっては、本当のところ迷惑なこと、島があることで整然とした区画の田んぼに整備できないことです。昨今はそんなこともあって、荒れた田んぼも目立つようになっています。島の大半は市で買い上げしてはいますが・・・今後の課題です。

投稿: でんでん大将 | 2016年1月30日 (土) 22時03分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1268142/63702684

この記事へのトラックバック一覧です: 島を守った覚林さん:

« 雨の中の「雪中行進」! | トップページ | 孫との再会 »